2016年2月4日木曜日

J.ブラームス:ドイツ・レクイエム

ずみさん:

◎ノリントン指揮 ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ ロンドン・シュッツ合唱団 92年(ERATO)

技倆と音楽が兼ね備わった唯一の演奏ではないか、と僕は思う。弦はもちろん、ノリントンのやりたいことをもう十分に理解している、LCP。ノリントンはシュツットガルトSWRでも録音しているが、こちらの録音のほうがよい。大体、ドイツ・レクイエムの質を決めるのは、ソプラノにラの音が初出する時でしょう。31小節目。Selig sindのさ。この音がないと、32小節目の和声の効果が出ないんです。それがなければブラームスではないのだ。だから、ダメな録音にはがっくり来るわけです(録音なのだから、継ぎ接ぎしてでもやってほしい←)。それはすごく厳しい基準だと思う。経験的にも。こんな音出るかよ、一瞬で飛ばせるかよ、という。まぁ、この録音はほとんど唯一そこがきれいに出ている盤だとおもいます。で、フーガも申し分ないし、なにより、アツいんです。演奏が。込めているものが違うのか、なんなのか。奇跡に近い録音だと思う(いや、こんなこと言うと失礼だと思うけれど。努力の結果なのはもちろんだけれど、音楽には神が宿るような瞬間がたまにあって、それがこの録音にはある、と言いたいのです)。主題に帰ってきた瞬間に、すべての伏線が回収され、曲は終結へと向かうのだ。そこで歌われる、共通した主題が「幸せであるよ」ということなのだ。なお、カップリングされているモツレクは、また版が違って面白い。アヴェ・ヴェルム・コルプスもよい。

○石丸寛指揮 東京交響楽団 栗友会合唱団 97年(BMGビクター)

ブラームスの考えるレクイエムは、生き残ってしまった者にどこまでも寄り添うことだと思う。これはその意思をちゃんと反映してるんじゃないかな、とおもう。ある指揮者のおすすめで買った。ちなみに31小節はおしいし、合唱として高度にできが良いわけでもない。でも、なにか訴えてくるものがあるのだ。とくにレクイエムのような曲にあっては、そういうのが一番大事だと思う。病気の身であった、石丸寛自身が「最後の演奏になるかも」と覚悟して乗った舞台だけに、そしてそれを周囲も知っていただけに、そういう思いが入り混じったのかもしれない。第6曲の後半のフーガあたりから神がかってくる。東京交響楽団の演奏だって、舐められたものではない。第1曲、第7曲は、主題を中心に設計すると思うけど、これに対する考え方は、ノリントンと対照的。どちらも、ブラームスの理解として正当だとおもうし、それが効果を挙げているという点で、この二つの録音を紹介した。最後の拍手の時に、もっともぞわっとくる。

もういくつか、次点を挙げるとすれば、ガーディナーか、ヘレヴェッヘがいいぞ(いつもどおり)。ちなみに、この曲にハマってから、ブラームスから離れられなくなりました。

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