2016年5月11日水曜日

ベートーヴェン:ピアノソナタ14番「月光」


てもさん:

◎グルダ(アマデオ、67年)

グルダによる快演。ベートーヴェンの月光でよく話題にのぼるのは、大抵がポリーニ、アシュケナージ、バックハウス、ケンプあたりで、グルダの月光の演奏を褒めちぎっているサイトというのはあまりない。なので、ぼくがこのサイトに書いている笑。この月光、とにかく3楽章が凄まじい。どの瞬間を取っても完璧な出来栄えで、すべての音の配置が寸分の狂いもなくあるべき位置であるべき音量であるべき長さで鳴っている。3楽章冒頭は楽譜に書いてあるpは完全に無視されfで始まっていて度肝を抜かれるが(それも冒頭の左手のCisはスフォルツァンドだ!)この始まり方は正直アリだと思う(64年ザルツブルクライヴでも冒頭をfで始める解釈を採用している。それ以前の録音(63年のコンサートホール盤、57年のデッカ盤)では小さく始まっている)。ペダルを多用し響きが重なるようにしているため、非常に滑らかでドラマチックな雰囲気になっている。基本ルバートは使わず、どのフレーズも全部インテンポで駆け抜けてゆく。しかしインテンポといっても乾いた感じにはならず、細かいところでは微妙な緩急を用いているためとても自然に聞こえる。ここまで劇的でしなやかに、一気に弾ききる月光も珍しい。グルダのベートーヴェンは強靭なタッチと流麗なフレージングを合わせ持ち、持ち前の華やかで美しい音色も相まって、実に複雑な味わいを持っているある意味不思議な演奏だと思う。

◯ホロヴィッツ(72年、CBS)

月光はおそらく今まで買ってきた同曲異演のCDの中で最も枚数の多い曲だと思うが(40枚くらい?笑)いまだにグルダとこのホロヴィッツの演奏のほかにめぼしいものが見つかっていない。ホロヴィッツのこの演奏も実に個性的な演奏で、これは正真正銘、斜めから構えた古典派である。1楽章はまさにホロヴィッツの独壇場であり、右手のメロディーの音色の扱いは彼のスクリャービンを聞いているかのような色彩豊かな官能性をも持っている。弾く音の一つ一つが違う色合いを持ち、その陰影に富んだ表情付けは実に立体的に響き、この月光の1楽章を見事にロマン派の曲に作り変えている。続く2楽章はなんとも気だるい雰囲気で続く3楽章のドラマを予感させるのに十分な効果である。ここも異色の解釈と言え、左右の手のタイミングのずらしと長めのテヌートによって表現されるやるせないもどかしさはこの楽章を単なるつなぎとは呼ばせない実に複雑な味わいに仕上げていて圧倒的である。3楽章も超個性的な演奏である。冒頭のアルペジオの上昇音型は異常なまでの緊張感を持ち一つ一つの音が結晶化している。第2主題の優美な旋律は打って変わってホロヴィッツ一流のカンタービレで奏でられ、激しい部分とのコントラストもホロヴィッツならではである。
ずみさん:

▲CDタイトル

2016年5月8日日曜日

スクリャービン:2つの小品 作品57 「欲望」「舞い踊る愛撫」


てもさん:

◎ネイガウス(スタニスラフ)(79年、デンオン)

スクリャービンの後期への入り口の作品。タイトルもなんとも刺激的(笑)なものだが、音楽もそれと同じくらい美しく、かつ後期作品にしてはかなり親しみやすいもの。調性は曖昧になってきているがまだはっきりしている。不協和音の美しさを堪能できる名曲(?)である。とはいえ普通に聞いてもあまり耳に残る曲では正直ない。しかし、ここに挙げたスタニスラフ・ネイガウスの録音を聞いてそれは一変した。彼の演奏、一部ライヴではかなり雑なものもあってこれまではよくスクリャービンを取り上げているが二流の感が否めないピアニストという位置付けだった(ネイガウスファンの方、失敬失敬^^ゞ)が、こういった小品での彼の解釈は後期スクリャービンの神秘主義への本質を見事についたもので、かつ一般人にもわかりやすく表現されていて非常に感銘を受けた。冒頭からさりげなく入るが、光沢感のあるタッチと絶妙な音量コントロールでスクリャービンの恍惚とした世界を表現している手腕は驚きである。「欲望」における半音でぶつかる和音の響きの美しさ、ためらいがちに昇る上昇音型の危うさ、「舞い踊る愛撫」での下降音型の和音進行をはっきり出すことで非常に綺麗な半音階の進行を浮かびあがらせ、その退廃的な美を表現しているあたり、ネイガウスならではである。このほか録音としてはゲンリヒ・ネイガウス(スタニスラフの父)、大御所ソフロニツキー(恐らくop57-1のみ)、グールド、ポンティ、オールソン、オグドン、カツァリス(Op.57-2のみ)などがあるが、出来はイマイチピンとこない。みんな響きが現実的すぎるのである。この曲はもっと夢見心地なぼんやりした輪郭の音色で弾かないと!!笑 ゲンリヒ・ネイガウスに関しては手許のCDの音質があまりに悪く(ノイズリダクションをかけすぎている)あまりちゃんと聞いていないためこちらは国内盤再発売を強く希望している。スタニスラフはこの曲を気に入っていたようで、最後のリサイタルでもOp.57-2をアンコールで弾いている(こちらもデンオンからCDが出ている)。やはり本人が気に入っていただけあってたった1分ちょっとの曲であるが味わい深いものがある。
<追記>
作品57-1「欲望」にはスクリャービン本人による演奏も残っている。ピアノロールでの記録のため、音色感や強弱のコントロールについては再生するピアノに依存し再生速度も収録環境によって異なるため(実際現在2種類の復刻CDが出ているが両者の印象は同一演奏か疑ってしまうほど異なっている。ただしよくよく聞けば同一の演奏である)あまり参考にならないのだが、間の取り方やフレーズの取り方などは作曲者本人の解釈として参考になる。ただ、このスクリャービンさん、自分の作った曲なのに楽譜通りに弾いていません!このOp57-1にしても9小節以降かなり音を変えて弾いています。ただ、楽譜よりむしろこっちのほうがいいかもってちょっと思いましたけど笑。個人的にはやはりネイガウスのロマン性には負けるかなーと思うけど、作曲者本人は楽譜の改変から見ると(たとえば9小節目は左手を1オクターブ下げて弾いている)割とドラマチックに弾きたいと思っていた気がする。そう考えるとネイガウスのは、ちょっと本人の意図からは外れた演奏ということになるが・・・。
ずみさん:

▲CDタイトル

2016年5月7日土曜日

W.A.モーツァルト:ピアノ協奏曲20番


てもさん:

◎ゼルキン(Pf)、セル指揮コロンビアso、61年(CBS)

ゼルキンによる実直でストレートな演奏。短調のこの協奏曲の激しい感情を実によく表現しており聞いていて大変心地よい。まさに「疾走する悲しみ」とはこのことである。同時にストレートな表現だからと言って無味乾燥な表現に陥ることなく、常に温かみのある上品な音色で弾かれる丁寧なフレージングは好感がもてる。ゼルキンには80年代になってからもアバドとの同曲の録音があるが、切れ味はセルとの旧盤の方が勝っており、その集中力と完成度の高さ、ひたむきに静かに燃える感情の表出という点において圧倒的に旧盤のほうが充実していると思う。セルの指揮もきびきびとしており、その清潔な響きはゼルキンの生真面目で一途なピアノに相応しく、引き締まった印象を与えている。

◯ワルター(Pf、指揮)、VPO(37年、EMI)

ワルターのピアノによる本人の弾き振りという珍しい一枚。ワルターのピアノはほとんど聴く機会がないと思うが(残っているものってたぶんこの協奏曲ぐらいではないかな)、この30年代のウィーンフィルを振っていた時代の彼の指揮のなんとも言えないウィーンの優雅な香りと洒落っ気をそのままピアノで体現したような詩情溢れるピアノは注目に値する。バックを務めるのはもちろんウィーンフィルで、とろけるような弦楽器の豊かでなめらかな音色とワルターの力まない草書体の演奏が大変よくマッチしている。ワルターってピアノとてもお上手なんだなと改めて感じたし、こんな演奏をできる現代のピアニストっているのかなとちょっと考えてしまった。さらりと一筆書きで描いた(ように聞こえるくらい力の抜けた)素敵な演奏である。

◯グルダ(Pf)、アバド指揮VPO、74年(DG)

そしてやはり最後はグルダです。この曲ではベスト盤に挙がるくらいの有名な録音。強靭なタッチと確信に満ちた表現で聞き手を圧倒する存在感の大きい演奏で、切ったら血の出るようなギリギリの精神力で弾いているような他を寄せ付けない異常なまでの張り詰めた緊張感がある名演。ピアノソナタを含めてグルダのモーツァルトはそういう意味で他では真似のできない厳しい表情を持った演奏が多く、その解釈はこの曲においても非常に正鵠を得たものとなっている。ただ、なぜかこの協奏曲ではピアノソナタなどでの説得力がそこまでは感じられない。ピアノソナタではそのような表現になるという必然性が確信を持って示されているように思えたのに、この演奏ではなぜそういう解釈をした?というような部分がなきにしもあらずで、個人的には演奏上悪い点は見当たらないにも関わらずぶっちぎりの本命盤になってない・・この理由はなぜかはちょっと今のところわかってないケド。。
ずみさん:

▲CDタイトル

C.フランク:ヴァイオリンソナタ

てもさん:

◎ティボー(vn)、コルトー(pf)、29年(EMI)

フランクのヴァイオリンソナタ。これ、ヴァイオリンソナタの中で一番好きな曲なんです。室内楽にハマったのもこの曲がきっかけ。いろいろと思い出深い曲ではあります。そして、一番初めに聞いた演奏がこのティボーの演奏。はじめは友達に言われるがままにティボーを聞いたのだが、まあ、いろいろ聞いていくうちに自分が気に入るものが見つかるだろうと思ってたら、どんどんいろんな演奏を聴きこむにつれてこの演奏がいかに特殊か、いかにティボーというヴァイオリニストの芸が半端なく上手いのかを知ることとなった。そして、現時点でこの盤を上回る出来の演奏を発見できていない。
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◯デュメイ(vn)、ピリス(pf)、93年(DG)

現代的な演奏部門においては、随一の出来。デュメイのヴァイオリンの魅力は、線の細い繊細な美音と、振幅の大きいコクのある(?)豊かなビブラートという相反する美質をもって聴かせる煌びやかな演奏スタイルにあると思う。そのエッセンスがもれなく詰まっているのがこのフランクのソナタと言える。
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▲タシュナー(vn)、ギーゼキング(pf)、47年(Bayer)

お次。大穴盤というほど"とんでも盤"(所謂と盤)ではないのだけど、あまり話題になることがなさそうなものをご紹介。タシュナーというバイオリニストはフーベルマンに師事してベルリンフィルのコンマスをも務めたなかなかの凄腕の人物です。
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ずみさん:

☆セルゲイ・ハチャトゥリアン(Vn), ルシーヌ・ハチャトゥリアン(Pf) (naive, 2008)

なかなか進まない音楽、がデュナーミクによっても表現されている。タイミングのとり方がいい。予想したのとは違うタイミングで、音がでてくる。そしてそれが効果的にハマっているのだ。 コルトーやティボーの流儀を受け継いでいると言ってもいいのではないだろうか。とはいえ、彼らより楽譜に忠実ではある。いやいや、比べなくていい、比べなくていい。どちらも好きだよ。
僕の今まで聴いてきたこの曲のイメージって、循環旋律の登場までつまらない曲、だったんだけれど、それが一気に塗り替えられて、全てが意味を持って配置されている、という感じを受けたのがこの録音。自信を持っておすすめできる。演奏者はアルメニア人だけれど、現代において最もフランスフランスしている気がする。
これね、ヴァイオリンだけじゃなくてピアノに依るところが大きい曲だけれど、この息の合いは姉弟ならではなんじゃないかなぁ。と思う次第。ひとことで、大雑把に言えば、こんな演奏してみたい。(2016/5/7)

J.ブラームス:交響曲第4番


てもさん:

◎フルトヴェングラー指揮ベルリンpo 48年(EMI)

まずはやっぱりこれですかね。フルベン大先生です。また古いのをと言われそうだけど、よいものはやっぱりよいです。まず冒頭のロ音の入り。これがうまくないとそのあと聞く気が失せます笑。この部分は神業といか言いようがない出来栄えで、霧の中からわっと現れる第一主題は1度聞いたら虜になります。これが一番うまくいってるのが、当盤1948年10月24日の演奏で、フルベンの五種頼あるぶらよんの中でもピカイチの出来。そこから緩急自在にうねるブラームスが始まり、弦楽器のポルタメントも時折入りながら、ひたすらロマンチックに進んでゆく。1楽章のコーダは数ある交響曲の中でも最高峰に位置するコーダだと勝手に考えているが、こういうところはまさにフルヴェン先生の独壇場である。例によってぐんぐん加速していくが、この加速が全然わざとらしくなく、ばっちり決まっている。だいたいいろいろ表現に工夫を重ねるタイプの現代の演奏家ってこういうのをやると、いかにも!って演奏になるけど、フルベンのすごいとこは、そこなんじゃないかとひそかに思ってる。最後のティンパニも納得のリタルダンドで締めくくられる。4楽章もなかなか決まってる演奏で、テンポ設定が非常にうまいなあとつくづく思う。てなところで、次。

◯クレンペラー指揮バイエルン放送so 57年(墺Orfeo)

このクレンペラー、ライヴだけにかなり燃えてる。スタジオ盤の同曲の録音では彼のザッハリッヒな側面が目立ってあまり好きになれなかったけど、こっちのライヴ盤の出来は上々。冒頭から前へ前へフレーズが覆いかぶさるように切れ目なく紡ぎ出され、細やかなニュアンスも表現されていて、一聴したところで他の盤とは違う!って直感した。とにかくめらめら燃えるような感情の入った演奏で、灼熱の演奏と言うと安っぽく聞こえるが、内に燃えるものを秘めてる演奏というか・・うーんそんな感じ。1楽章コーダも納得の出来。クレンペラーにしては珍しく大幅なテンポの揺れが見受けられて、ライブだとこんなに指揮も変わるんだなと思った。録音は古いけど若干擬似ステレオになっているので聞きやすいですよー。

▲カラヤン指揮フィルハーモニアo 55年(EMI)

全編にわたり細身の響きにも関わらず恐ろしいくらいなめらかな弦楽器が特徴。どう見てもこれは正統派のブラームスではないが、こういう異端児系の演奏は好きである。70年代に全盛を迎えるBPOのカラヤンサウンドがやはりカラヤンの行き着く美学の頂点なのだろうが、意外にもこのゴージャスサウンドはブラ4にはあまり似合わない(当たり前か笑)。78年の録音はキラキラ華麗な演奏だがさすがのカラヤンファンである私でもこれはちょっと違うかなと思ったりする笑。そんな中でしっくりくるのはこの55年のPOとの録音と63年のBPOの録音。後者は重厚で暗めの色を基調とした音作りでこちらの方が一般ウケすると思われるが、やはりカラヤンの面白みという点ではPOとの演奏が面白く感じられるし、クライマックスでも決して(音量的には)盛り上がらないひらすら美のみを追求した氷細工のようなカラヤンの音作りとこの曲が持つブラームス色が共存しているという点ではかなり上位に食い込む演奏ではないだろうか。

ずみさん:


CD NAME ZUMI

TEXTZUMI

スクリャービン:詩曲作品32-1


てもさん:

◎ホロヴィッツ(62年、CBS)

スクリャービンと言えばホロヴィッツ。彼にしかできない繊細で神経を張り詰めた弱音、アゴーギク、ペダリング、千変万化する音色でもって表現する官能的な美しさはスクリャービンには必須の要素ばかりである。とくに詩曲32-1で必要になるスタッカートを伴う上昇音型(前半後半合わせて計8回出てくる音階)を楽譜通りスタッカートで弾きこなせているのは筆者の知っている限りホロヴィッツのみである!(その他スクリャービン自身の演奏によるピアノロールの記録では作曲者本人も何とも詩的にこの部分をスタッカートで弾いているが。)普通の奏者がスタッカートで件の箇所を弾けば恐らくこの曲に必要な要素をかなり失わせるものになるだろう。それを可能にしているのは、おそらくは彼一流の指を寝かせて弾く奏法と、そして改良に改良を重ねた彼愛用のスタインウェイによるものであり、スタッカートで一音一音は切れているにも関わらず、それぞれが音がない空白によって繋がって聞こえ、夢うつつな詩情を生み出しているのである。4分の3拍子に変わり特徴的な5連符のリズムで揺れ動く部分の意識のゆらぎの表現も彼ならでは。陰影に富む左手の音色の変化によって微妙な和音の変化がより際立ち多彩な表情を覗かせるあたりは彼のピアニズムの真骨頂であろう。この62年録音はスタジオ録音であり、彼の意図していることが綿密に再現されている。そして比較的楽譜に忠実に弾いている笑。

◎ホロヴィッツ(65年ライヴ、CBS)

同じくホロヴィッツのライヴ盤である。こちらは3年後の65年の録音。基本的な解釈は同じなのだがライヴだけあって62年のスタジオ録音よりも自由に感興に任せて弾く部分もあり面白い。どちらを取るかは人それぞれだろうが、はっきり言って甲乙つけがたい。部分的な効果の面白さはこちらが上だろう。またこちらはホロヴィッツらしい楽譜の改変が見受けられる。効果を出すために削るべき音は削り、付け加える音は的確に付け加えている。考え抜かれた巨匠の芸であり、一聴に値する。

◯ポンティ(73-74年、VOX)

悪名高きポンティ盤。私はこのポンティなるピアニストが好きである。悪いのは録音状態とピアノの状態。さすがにこのアップライトまがいの平面的で奥行き感に欠ける音色はいただけない(本当にアップライトなのでは?という噂もあるようで笑)。にも関わらずここに聞かれるスクリャービンは本質をよく突いており、こんなひどい状態のピアノで弾いているのに、その美質がよく伝わって来るところがポンティの実力だと私は思っている。要は音色の変化のつけ方、立体的な音作りがうまいのである。ポンティのスクリャービン全集は非常に短期間で録音されたようで中には少々粗い、弾き飛ばしているようなものも見受けられるのも事実だが、この詩曲に関してはこの曲の美しさがよく伝わる演奏になっていると思う。

◯シャイン・ワン(07年、Naxos)

はっきり言って他の演奏は到底ホロヴィッツに及ばないものばかりではあるが、ポンティをはじめいくつか挙げてみているが、新しいところでシャイン・ワンを取り上げてみる。そのほか往年の巨匠ソフロニツキーの60年リサイタルの録音やネイガウス(父子)、つい最近発売されたオールソン盤、はたまたぶっとんだ演奏をやらかしたウゴルスキ盤、色彩感に欠ける致命傷のアシュケナージ盤などいろいろあるが、正直どれも取るに足らないものばかり。その中でもシャインワンのものは割と美しい仕上がりになっていて時折聴いているものの一つである。このCDはスクリャービンの初期から後期に至るまでの各時期を代表する作品(とは言え知名度で選曲しているというわけでもなさそうだが)を並べて収録しているものであり、通して聴いてみるのも一興かもしれない。

2016年5月6日金曜日

ドヴォルザーク:ピアノ五重奏曲


てもさん:

▲ルービンシュタイン(Pf)、ガルネリSQ(71年、RCA)

いきなりの大穴盤に登場していただく。ルービンシュタインのドヴォルザークである。ルービンシュタインと言えばショパンをはじめとしたオーソドックスな解釈のソロ作品が有名で、一方ドヴォルザークのこの曲と言えば大概がリヒテル盤あたりを挙げるのが見識というところだろう。ところが意外にもこの曲にルービンシュタインが合うのである。それもショパンのようなピアノ教室のお手本のような演奏ではなく、強烈な表現意欲を持ってこの名曲に挑んでいるところが凄い。こんなドヴォルザークはなかなかない!!とにかくとの瞬間もルービンシュタイン独裁のような状態で、彼のピアノの入り方如何でガルネリSQの表現がガラリと変わるのである。しかも、独裁によって室内楽における自発的なアンサンブルの流れが失われているかというとそんなことはなく、ガルネリSQのなんとも香り高いむせ返るようなロマン的な表現は圧倒的で、明るく美しい旋律を持つ、悪く言えばさらりと流れやすいこの曲が、異様なまでのロマンの香りがするただならぬ音楽に変貌している。ピアノパートの旋律になると、途端にピアノの音色が輝きを増し圧倒的な存在感でもって弦楽四重奏の上に浮き上がってくるし、1楽章の2度あるクライマックスでは普通の奏者なら決してかけないようなルバート(テヌートというべきか)を用いてドヴォルザークのメロディーメーカーの側面を最大限に強調している。ルービンシュタインってこんなに主張が強い演奏をするのかと恐れ入ってしまった。しかしそうするとあのよく知られたショパンの演奏は何なのだろうか笑。そんなところだから当盤は現在ほとんど市場に出回っておらずずっと廃盤のままと思われる。ルービンシュタインって実はソロより室内楽のほうがうまいのではと個人的には思ってる。ブラームスのトリオは大変な名演だし。

◯スメタナSQ、シュテパン(Pf)、(66年、EMI)

次。スメタナSQの旧盤。パネンカのピアノによる新盤ではないので、ご注意を。こちらもほとんど市場に出回ってないと思われるもので92年あたりに一度EMIから国内盤が出たようであるがそれっきりで、筆者も駅売海賊盤(エールディスク製)でCDを入手した(画像もネットでEMIのものを探したがヒットせず。仕方ないので手許にある件のエールディスクのものを使用した)。しかし新盤では聞かれない自然な音楽の流れや、ボヘミアのローカル色と純音楽としての普遍性の絶妙なバランスなど、なぜに廃盤なの?と言いたくなるような演奏で、末永く聞く向きにはこれが一番なのかもしれない。演奏は特段目立った特徴があるわけではないが、どの表現も角が立っておらず常にまろやかな表現なのが特徴と言えば特徴で、この控えめなロマン性の表出こそがこの盤が私を惹きつけて離さない所以である。ヤフオクにも時々出品されているので皆さん買いましょう笑  FICというところから出ているのも同一盤なのでOKです。

◯リヒテル(Pf)、ボロディンSQ(83年、ビクター[VICC-60007])

有名なリヒテル盤。と言ってもフィリップスから出ている1982年のものではなくこちらは1983年のライヴ盤。フィップスのものもこちらも1年違いのライヴ録音だが、82年のほうはなんだかとってもテンポが早くて、どうもせかせかして好きになれないし、なんだかとても雑であまり好んで聞かない(リヒテルもミスタッチがとてつもなく多く、弦の奏者も音程をやたら外している)。それに比べ、83年の当盤は幾分落ち着いたテンポで堂々とした演奏で好感が持て、82年で聞かれた雑な感じもなくなっていて完成度が高い。それに、ライヴだけあって非常に情熱がほとばしる熱い演奏になっていて凄みもある。リヒテルの力強いピアノはやはり少しデリカシーがないように感じるが、まあこれはリヒテルだから仕方ない。しかし凄いのがボロディンSQ。どの弦楽器の音色も鮮やかで、完全に鳴りきっており聞いていて心地よい。それに加え時折入るポルタメントやロマンチックな表現など決して無味乾燥にはならない。どの楽章も聞いた後胸のすくような快感を残す。オススメ。

◯ウィーンフィルハーモニーSQ、カーゾン(Pf)(62年、デッカ)

最後。こちらも忘れてはならない名盤。ボスコフスキー率いるウィーンフィルSQによるひときわ美しい一枚。ウィーンフィルの奏者だけあって弦楽器は艶やかな音色でもともとロマンチックな旋律を持つこの曲だが、なんだか違う方向にロマンチックになっているような気はするが笑、ヴァイオリンの極細の煌びやかな線が合わさり絹のような肌触りをも感じさせる上品な表現は私は好き。上のリヒテル盤のような盛り上がりも推進力もないし、終始おとなしい演奏なのが逆に好印象。"土着の"という言葉がもっとも似合わない名盤。
ずみさん:


CD NAME ZUMI

TEXTZUMI

2016年5月4日水曜日

E. グリーグ: ピアノ協奏曲


てもさん:

◯ツィマーマン(Pf)、カラヤン指揮BPO、81-82年、DG

これは以前よく聞いていた演奏。ツィマーマンのクリスタルな響きのピアノが素敵で切れ味も抜群。超ピアニスティックな名人芸が楽しめる。カラヤンの重厚でゴージャスなバックも(グリーグに相応しいかどうかは度外視するとして笑)ツィマーマンと互角の冷静かつ煌びやかな演奏である。グリーグ色はかなり薄められていて、このピアノ協奏曲のもつソリスティックな華麗な面にスポットライトを当てた演奏なので、きっとずみさんの好みとは対照的なのだろう笑

◯アンダ(Pf)、クーベリック指揮BPO、63-64年、DG

隠れた名盤だと思う。シューマンとグリーグの協奏曲のカップリングだがどちらも絶品で、アンダのなめらかで角が取れた温かみのあるピアノと、クーベリック指揮するまだフルトヴェングラー時代の名残が残る重心の低いベルリンフィルの奥ゆかしいサウンドがマッチして、深みのある演奏になっている。暗めの色合いでシックな印象の中に黒光りする光沢があるような気品と情熱を兼ね備えた好演。シューマンの方も名演で、こちらもシューマンの項でまた紹介したいと思っている。

ずみさん:

リパッティ(Pf), ガリエラ指揮, フィルハーモニア (Urania, 2008)

1947年の9/18, 29に録音されたものだろう。珍しく古い録音を推しているけれど、自分で探し当てたわけではなくて、この前、てもさんと、昔お世話になった指揮者と3人で飲んでいた時にグリーグの話が出て、その指揮者にこれをおすすめされたのだった。
たしかに、これはよいものだ。グリーグのピアコンといえば、力が空回りするような演奏が結構多いと思うのだが、これはそれを回避しているどころか、効果的にコントラストをのせている。

グリーグの楽曲をそんなに知らないので、偉そうなことは言えないが、グリーグを演奏する際に重要になるのは、テンポのコントロールだと思う。グールド然り、このリパッティ然り。
とても良く制御されていて、それがこの曲の情緒的な面を際立たせているのである。
この曲は1楽章の最初が有名すぎて、そこだけしかわからないという人も多いのではないかと思うけれど、ぜひこの機会に、全曲をきいてほしい。2楽章終盤なんて、すこしの涙なしには聴けない。繰り返して言うけれど、グリーグは、緩やかなところがいいのだ。注目して聴いてほしい。
ピアノのことばかり言ったけれど、弦楽もそれに乗せられたか、かなりいい。3楽章終結部につながる流れとか、終結そのもの、とか特に。細かいことはいろいろ言えるけれど、それはいいっこなしだ。

2016年5月3日火曜日

J. ブラームス: 交響曲2番


てもさん:

CD NAME TEMO

TEXTTEMO

ずみさん:

シャイー指揮 ゲヴァントハウスオルケスタ― (DECCA, 2013)

驚きの解像感。この曲集では4曲すべてがバンドルされているが、その中でも特に良いのが、この2番だと思う。
最新の録音らしく、多数のチャネルで一つ一つの楽器を録っているのだろう。とくに金管の響きが素晴らしい。

音楽としては、物語のページを次々とめくっていくような、感情的なドラマティックさがある。
明るくブラームスを演奏する人はそんなに多くない。しかし、この録音は明るさ、それは単純な明るさではなく、虚構としての、表面的なきらびやかさ、美しいが悲しいというような、メンデルスゾーン的な趣がある。
しっとりしっとり、重層的に演奏を積み重ねていくのだ。ミルフィーユの生地にフォークの側面をを一枚一枚と通していくような、あるいはバウムクーヘンを一枚一枚めくっていくような、そんな快感がある。(ご理解いただけないでしょうね……)
あと、はやい録音好きみたいです。ガーディナー然り、ノリントン然り………
シャイーだと、コンセルトヘボウとの旧盤より、こちらのほうが好き。

2016年2月10日水曜日

H.ヴィエニャフスキ:モスクワの思い出



エルマン(37年、オーパス蔵)

モスクワの思い出の代表盤(と勝手に思っている)である。この頃のエルマンはほんとにうまい(後年になると弾き間違えているのか譜読みしているのかわからないような演奏になってしまうが笑)。音質も電気録音にバリバリ入っている37年なので割と聞きやすくて良い(オーパス蔵の復刻お見事!)。カデンツァなどはばっさりカットしているが(当時の録音環境だと仕方ないだろう)、個人的にはこの曲はカデンツァなしでいきなり赤いサラファンのメロディーに入ったほうが好き。エルマンの人懐っこい美音が楽しめるし、ルバートやポルタメントもばっちり決まっていてうまい。伴奏のピアノもぴったりエルマンにつけていてお上手〜。

メニューイン(36年、EMI)

若い頃のメニューインの録音。エルマンもびっくりするほど、ロマンチックな表現に溢れている。これは録音年代の制約にも関わらずカデンツァまですべて収録されているのがすごい。それにしてもメニューインの音色がやっぱりいい。こんな音色だすヴァイオリニスト現代にいる??エルマンとメニューインがモスクワの思い出の2大名盤だと思う。

グレゴロヴィッチ(1909年、Testament)

ここからはだいぶ年代が古くなります。アコースティック録音時代に録られたもので音質は貧しいですが、このグレゴロヴィッチの演奏もなかなか粋です。

キロガ(1912年、グリーンドア)

イザイの無伴奏ヴァイオリンソナタの被献呈者でもあるキロガ。もっと評価されてもいいヴァイオリニストですよ。このモスクワの思い出はエルマンとかに比べればあまりぱっとしない向きもあるけど、このCDに併録されているサラサーテやバッジーニ、シューマンのロマンス、レハールのフラスキータセレナーデなどほんと超絶の名演。これの曲については追って紹介したいです。

エルマン(1910年、ビダルフ)

エルマンの旧盤。こちらのほうが評価がいいっぽいので、あちこちの中古屋やヤフオクを数年間探し回ってやっと入手したCD。ビダルフってもうほとんどが廃盤なんですよ、だから入手はかなり難しいんです。でも、やっぱぼくは37年の新盤のほうが好きです。

CD-R盤のため画像なし
ヴェチェイ(1911年、CD-R盤)

ヴェチェイって、あの悲しみのワルツでもお馴染み(?)のあのヴェチェイです。ヤフオクで物色してたらSPからの板起しでCD-Rに入れた手作りCDが販売されていたのでそれを入手。とーっても、強烈なルバートでびっくりします。もう、とーーーっても長く伸ばすところとかあって痛快。

ヤン・クーベリック(1926年、ヤン・クーベリック協会)

ヤン・クーベリックはあの有名な指揮者ラファエル・クーベリックの父親で、彼の若い頃は(1900年頃)は非常にうまくてお気に入りになってたので(ヴィエニャフスキーの田舎まわりのヴァイオリン弾きなど(Testament))、たまたまamazonを眺めてたときに見つけたこのクーベリック協会盤を購入してみた。しかし、このモスクワの思い出は録られたのが1926年で、さすがにおぼつかない足取りでお世辞にもうまいとはいいがたいものだった。いろいろやろうとしているのは分かるけどどれもハマっていない。技巧も衰えたのなら、冒頭のカデンツァはエルマンのようにカットでもよかったんじゃないかと思う。

フランチェスカッティ(40年代, BnF)

フランチェスカッティは、こういうドヤ顔で弾く曲が最も似合う奏者のひとりだと思う。ハーモニクスとパッセージの早い切り替わりのところが技倆が見られて素敵。一つしか紹介できないけど、こういう曲に関しては、てもさんの評価は信用できるよ。←

W.A.モーツァルト:交響曲40番



◎ワルター指揮ウィーンpo(52年、Sony)

ワルターのウィーンフィルとのライブ盤。ワルターはぼくの大好きな指揮者の一人だけど、ハマるきっかけとなったのがこちらの演奏。初めて聞いたときは冒頭からヴァイオリンの一斉ポルタメントにただただ圧倒されて、この曲にこんな解釈が可能だったのかとたちまちワルターの虜になってしまった。ウィーンフィルの官能的な弦の音色も際立っていて、ここに全員一斉のポルタメントが入るのだから、たまんない!まだまだ40番で買ってないCDは山のようにたくさんあるし、未来のことなんて誰もわからないけど、こんな名演奏は過去にも未来にももう二度と現れないと断言できる。古楽勢なんてひと吹きで吹っ飛ぶよ、この演奏聴いたら。ヴァイオリンの音色が好きな人は必聴の演奏で、もうひたすら色っぽいモーツァルトである笑。

◯カラヤン指揮ベルリンpo(70年、EMI)

こちらもまたコテコテの名盤。ヤンカラ先生のお出ましでございます。これは大穴盤にしてもよかったくらいかも。現代のモーツァルト解釈の流行とはまったく逆をゆく、古いけど逆に新しく感じられる演奏。作曲家の意図とか、当時の演奏様式とか完全無視、そんなことは知ったこっちゃない、これはおれの音楽。といった感じで、自信満々なカラヤンの姿が目に浮かぶ。こういう演奏好き。フレーズはすべてレガートでなめらかで、響きは分厚くゴージャス。弦楽器のこの流麗さといったらないし、それこそ氷上の重戦車である(またこの言葉!)。カラヤンはこの曲を何度も録音しているが、厚化粧ぶりでもっとも際立つのがこの70年盤。

◯クレンペラー指揮フィルハーモニアo(62年、EMI)

クレンペラーのモーツァルトは奥が深い。この人は決して耳障りの良い音楽を作る指揮者ではないし、この曲の演奏も一聴したところぶっきらぼうに響くけれど、そこには深い悲しみと情感がこもっている。涙が枯れて泣けないとでも形容したくなるような、見た目以上によくよく聞くと深みのある演奏でこれも捨て難い。それがより顕著に表れているのがこの盤の旧盤(56年)なんだけど、この62年の新盤はその要素にプラスしてちょっとだけ優美さを加えたような演奏。彼にしては珍しく弦楽器の響きが美しく少しだけポルタメントもかかっていて面白い。国内盤と輸入盤で56年盤と62年盤が同一表記でも混在しているっぽいので注意(演奏時間で見ると両者を判別できる)。ワルター、カラヤンと比較的表面的な演奏を挙げてしまったのでちょっと趣向を変えてクレンペラーを挙げてみた次第です笑。


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2016年2月8日月曜日

L.B.ベートーヴェン:ピアノソナタ17番「テンペスト」



◎グルダ(67年、アマデオ)

グルダのベートーヴェン全集からの一枚。デッカ時代の旧盤がバラでよく再発売されるけど、このアマデオの新盤のほうがはるかに出来が良く、とても面白い。演奏は快速テンポでドラマチック。快速テンポと言ってもテクニカルで一直線な演奏ではなく、緩めるところは緩め、押さえるところはばっちり押さえている演奏で、考え抜かれた自然なアゴーギクも相まって、とにかくどの瞬間もビシッとキマッてる。一聴してその強い推進力と、他の演奏を寄せ付けない説得力に満ちた表現に圧倒されてしまう。このベートーヴェン全集におけるグルダの自信というのは半端なかったんだろうなということをうかがわせる名演ですよ、これは。そしてその純度の高さに加えて、この曲のもつロマンチックな要素もしなやかに表現されていて、なんだかとても複雑な味わいを持っている。それにしても、これはピアノを弾く者としての感想だけど、グルダの演奏ってほんとにペダルの使い方が自然。決して教科書的な踏み方はしない。常になめらかに一息で聴かせる踏み方をしていて、豊かな響きを残しながら次々とフレーズを繋げて行くが決して音が濁ることがない。彼の映像を見ればペダルがほんとに複雑な細かい動きをしていて驚いたことがあるくらい。彼のロングトーン(ピアノでロングトーンという言葉を使うのはなんか変だけど)の響きの美しさは他のピアニストでは真似できない純度。話が長くなったけど、グルダのベトソナ全集は絶対にオススメ。

◯ポリーニ(88年、DG)

このポリーニの演奏は、巷では大変な知名度だそうで、よく名盤本などでも上位に上がる演奏。ぼく自身はボリーニの演奏は必ずしも好きな演奏ばかりではないのだけれど、このテンペストは比較的好きな方。グルダを聞いた後に聞くと、ちょっと"ゆるふわ"だなーって思っちゃうけど、これはこれでロマンチックでアリ。3楽章の「ふぁそふぁみ、ふぁそふぁみ、ふぁそふぁみ」のトリルの入れ方がかっこいいー。全体的にもテクニカルで明晰。聞いた後にすっきりとした快感を残す。

◯バックハウス(59-69年、Dec)

やっぱバックハウスは存在感ある。ザ・ベテランといった感じの貫禄のある、無骨で、ま言って見れば「いぶし銀」的な(笑)渋い演奏ではあるけれども、そこからにじみ出るのはやはりロマン派の音楽。ゆっくりとしたテンポも感興のおもむくままに揺れ、その感情の揺らぎから生まれる自由なルバートによって一つ一つ紡ぎ出される雄弁な語り口は、大家の至芸といった感じだ。こんな味わい深くコクがある大人テイストのテンペストはほかにはないと思う。


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2016年2月5日金曜日

E.グリーグ:ピアノソナタ

ずみさん:

◎グールド 71年(Columbia/Sony)

他の全ての録音に喧嘩を売る録音、それがこのグールドのグリーグだ。1楽章の冒頭が、すでにちがう。人々は言う。なんだこのテンポ選択は、と。だが、先入観を取り払ってよく聴いてほしい。執拗に繰り返すテーマの、慟哭にも似た表現を。3楽章を中心に表現を設計していくと、こういう選択になると思う。グールドのグリーグならではの、ピアノ協奏曲かのようなピアノソナタを、ぜひ聴いてほしい。6年来の愛聴盤。ちなみにこれ以外にオススメはないと断言する。少なくとも僕が定額で聴ける範囲にはなかった。

2016年2月4日木曜日

W.A.モーツァルト:ピアノソナタ13番



◎グルダ(77年、Amadeo)

グルダらしいシリアスなモーツァルト。グルダって後年ジャズに手を出したこともあって、一部からはクラシックの本流と見なされない傾向もあったそうで、グルダのモーツァルトは楽しいなどといったコメントもたまに見かけるけど、クラシックに取り組むときの彼はいつもシリアスで、真剣そのもの。決して彼の音楽は明るい楽天的な音楽ではないと思う。そしてそれはモーツァルトも同じ。彼もまた長調の曲を多く書き、短調の曲は非常に少ないけれども、長調の曲こそ短調では表現できない心の内を描き出すのに合っているのではないか。彼の作曲した長調の曲にはどこか影があるように思えてならない。グルダが描き出すモーツァルトはそういった要素がごく自然に、かつストレートに表現されていて快い。落ち着いたテンポと堅めの音色で淡々と演奏しているが、陰影に富んだ音色の微妙なニュアンスの表現や天上の美しさを思わせる弱音の高音(これはかなりの高度なペダルテクニックを要すると思われる)などグルダのエッセンスが詰まった名演。

◯ホロヴィッツ(87年、DG)

ホロヴィッツもまたこの曲を得意としていたそうで、彼の残したモーツァルトのナンバーは偏りがあって有名な8番や15番などは録音がないのに、10番と13番だけは幾種類もの演奏が残っている(ほかに11番や12番も数は少ないけど録音がある)。その13番であるが、冒頭からホロヴィッツの歌が満載で度肝を抜かれる。なんだこの歌うピアノは!!モーツァルトの古典的な音楽が、ホロヴィッツの多彩な音色のパレットによって塗り替えられ、色彩豊かに蘇っている。彼の音色パレットの豊かさには本当に脱帽するし、それを駆使した立体的な表現は、一瞬たりとも気を抜くことができない緊張感と説得力に満ち溢れている。どの瞬間にも驚きの発想が隠されていて聞いていて興味が尽きないし、これは創意工夫の宝庫であると言ってもいい。しかもそれが絶対にわざとらしくならないところが彼の最も偉大なところかもしれない。演奏はこの87年のハンブルクでのライヴの出来が一番良い。同じくDGに入れたスタジオ盤の方は少々乱暴なところもあるが、こちらは彼のやりたいことが最良の形で表現できているのでオススメ。

▲ホロヴィッツ(51年、RCA)

もう一枚ホロヴィッツいくよ。こちらは大穴盤に相応しい若いころのまだエネルギーがありあまっていたころのホロヴィッツの演奏。CDは1,2年前に発売されたカーネギーホールライヴ箱(40枚組)で手に入れた(この51年の演奏は2009年初出とのこと)。若い頃の録音ということもあって、fのところは例によってffかfffくらいに膨れ上がる箇所もあり、モーツァルトなのかラフマニノフなのかわからないような部分も出てくるが(苦笑)、彼のやりたいことは87年盤よりもこちらの方がなんの抵抗もなく表現できていて面白い。音色の変化も千変万化というよりは電光石火のごとく目まぐるしく姿を変えてゆくが、その音色パレットの豊かさは若い当時からずば抜けている。ヒストリックリターン後のほうがより深みのあるニュアンスの表現が目立つようになるが、このころのホロヴィッツも爆音一筋の爆演野郎ではなかったことのなによりの証明で、彼の最大の魅力は弱音にありだと痛感した次第。


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J.ブラームス:ドイツ・レクイエム

ずみさん:

◎ノリントン指揮 ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ ロンドン・シュッツ合唱団 92年(ERATO)

技倆と音楽が兼ね備わった唯一の演奏ではないか、と僕は思う。弦はもちろん、ノリントンのやりたいことをもう十分に理解している、LCP。ノリントンはシュツットガルトSWRでも録音しているが、こちらの録音のほうがよい。大体、ドイツ・レクイエムの質を決めるのは、ソプラノにラの音が初出する時でしょう。31小節目。Selig sindのさ。この音がないと、32小節目の和声の効果が出ないんです。それがなければブラームスではないのだ。だから、ダメな録音にはがっくり来るわけです(録音なのだから、継ぎ接ぎしてでもやってほしい←)。それはすごく厳しい基準だと思う。経験的にも。こんな音出るかよ、一瞬で飛ばせるかよ、という。まぁ、この録音はほとんど唯一そこがきれいに出ている盤だとおもいます。で、フーガも申し分ないし、なにより、アツいんです。演奏が。込めているものが違うのか、なんなのか。奇跡に近い録音だと思う(いや、こんなこと言うと失礼だと思うけれど。努力の結果なのはもちろんだけれど、音楽には神が宿るような瞬間がたまにあって、それがこの録音にはある、と言いたいのです)。主題に帰ってきた瞬間に、すべての伏線が回収され、曲は終結へと向かうのだ。そこで歌われる、共通した主題が「幸せであるよ」ということなのだ。なお、カップリングされているモツレクは、また版が違って面白い。アヴェ・ヴェルム・コルプスもよい。

○石丸寛指揮 東京交響楽団 栗友会合唱団 97年(BMGビクター)

ブラームスの考えるレクイエムは、生き残ってしまった者にどこまでも寄り添うことだと思う。これはその意思をちゃんと反映してるんじゃないかな、とおもう。ある指揮者のおすすめで買った。ちなみに31小節はおしいし、合唱として高度にできが良いわけでもない。でも、なにか訴えてくるものがあるのだ。とくにレクイエムのような曲にあっては、そういうのが一番大事だと思う。病気の身であった、石丸寛自身が「最後の演奏になるかも」と覚悟して乗った舞台だけに、そしてそれを周囲も知っていただけに、そういう思いが入り混じったのかもしれない。第6曲の後半のフーガあたりから神がかってくる。東京交響楽団の演奏だって、舐められたものではない。第1曲、第7曲は、主題を中心に設計すると思うけど、これに対する考え方は、ノリントンと対照的。どちらも、ブラームスの理解として正当だとおもうし、それが効果を挙げているという点で、この二つの録音を紹介した。最後の拍手の時に、もっともぞわっとくる。

もういくつか、次点を挙げるとすれば、ガーディナーか、ヘレヴェッヘがいいぞ(いつもどおり)。ちなみに、この曲にハマってから、ブラームスから離れられなくなりました。

2016年2月3日水曜日

W.A.モーツァルト:ピアノソナタ8番



◎リパッティ(50年、EMI)

中学の時にピアノのコンクールで弾いた経験もある曲だけど、当時はシフのCDしか持ってなかった(たしかピアノの先生ご指定のCDだった気がする笑)。自分で色々な演奏を聴くようになって電撃的な衝撃を受けたのがこのリパッティの演奏。特に目立った特徴があるわけではない演奏だけど、この曲の悲劇性が本当にうまく表現されているなと感銘を受けた。それもいたずらに悲劇性を訴えた演奏なのではなく、涙ぐんでも微笑みを絶やさないような、澄んだ青空がどこまでも寂しく感じられるような、そんな演奏。この曲はもともと短調で書かれているけど、このリパッティの方向性というのは長調で書かれた協奏曲27番などにも通じるピンと張り詰めた虚しさを感じさせる。演奏はどこまでも淡々と、しかし丁寧に、一音一音をテヌート気味に弾いていく。弱音の神経質な響きはリパッティならではだなあと思う。リパッティ本人も白血病で亡くなる直前の録音ということもあり、そこいらの普通の精神状態での録音とは重みが全然違う非常に厳しい表情を持った演奏。いまだにこの演奏を超える8番の演奏ってないんじゃないかなあ。永遠に語り継がれるべき名盤。

◯ケンプ(62年、DG)

今度はケンプお爺ちゃんの演奏。リパッティのような崇高な精神性を持った演奏ではなく、明るい日差しが差し込むかような温かみのある詩的なモーツァルトで、懐の大きさを感じさせる演奏。微妙なアゴーギクを使っていろいろな表情を巧みに作り出していて感心する。少し技巧的に弱いところが散見されるけど、これはケンプお約束の「精神性」である笑。精神性って何なんだろうね、よく思うけど。あと「いぶし銀」ね。下手くそな演奏に使われる代名詞のような言葉だ笑。それはともかく、リパッティを聞くとケンプが聴きたくなり、ケンプを聞くとリパッティが懐かしくなる。甘いものと辛いものの組み合わせは聞き出したら止まらなくなる。うーん、個人的にはこの2つは双璧。

◯シフ(80年、Dec)

中学のとき聞いた原点の演奏。シフなんて大真面目な演奏が多いし、音大生がレッスンのために参考演奏として聞く演奏者と長年切り捨ててきたけど、今回8番の記事を書くために聞きなおしてみて意外にもイケてるなと思った。いや、上位2つはすぐに決まったんだけどあともう一点がなかなか決まらずにね。。グルダと悩んだんだけど、グルダは13番15番にとっておこうと思いシフにした次第。演奏は至って真面目で左手の処理も教科書的だが、決して無味乾燥な演奏ではない。抑制の効いた感情表現も見受けられ好印象。


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J.ブラームス:交響曲第3番



◎クナッパーツブッシュ指揮ウィーンpo(58年、日本モニタードリームライフ)

クナのぶらさん。一部宇野こ◯ほ◯先生らが熱烈に支持している盤だが、たまたまこのドリームライフから出てる2枚組のCDが店頭で安売りしてたので買ってみたところ、これがとてつもなく良かった。まず3楽章を聴いてみると、冒頭から生々しい弦楽器の歌い回しにノックアウトされた。VPOだけに個々のビブラートがまざらないでそのまま聞こえ、ぞくぞくっとなる。ま、言ってしまえば官能的な演奏。そして、この指揮者のフレーズの取り方は大きいなあと痛感した。普通ならフレーズを収めて切る部分で、いやまだまだ終わってねえぞ!といった具合で、ぐいぐい続ける。むせび泣く弦楽器とでも一言でまとめておこう笑。3楽章でここまでこってり命かけてる演奏も珍しいと思う。1楽章などもppからffffくらいの猛烈なクレッシェンドをはじめクナの悪魔的表現がオンパレードで圧倒的。ちなみにくだんの大先生は50年のBPOライブを熱烈に推薦しておられて、クナのぶらさんの中で最上の出来と謳っているが、個人的にはこの58年VPO盤の方が上を行ってると思う。たしかに迫力という点では50年盤の方が上かもしれないが。そのほか44年BPO盤というものもあるが、こちらの出来はいまひとつパッとしない。

◯フルトヴェングラー指揮ベルリンpo(49年、EMI)

お次はフルベン。49年のBPOのライブ盤です。クナとフルベン、緩急自在のコテコテ派という点では共通しているが、両者は似て非なるものだと思う。クナは常に作品の外側から作品を見下ろし作品を手中に収めているのに対し、フルヴェンは内側から燃え上がり夢中になって振る。このぶらさんに関しても、まあ期待通りの熱演である。両端楽章は荒れ狂っており、BPOの重厚でドイツ的な荘厳な雰囲気が楽しめる。4楽章の盛り上がるところでは、楽譜にはないティンパニーが追加されていて効果絶大。3楽章はクナほど歌いまくってはいないが、濃厚なエスプレッシーボが炸裂している。

▲メンゲルベルク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウo(32年、Ph)

大穴盤は大いに迷ったけど、大穴という点ではやはりメンゲルベルクかなと。とろけるVPOの弦が魅力のワルターのVPO盤(36年)、現代的な演奏ではあるが主観と客観のバランスが取れたジュリーニ盤(VPO、90-91年)、洗練される前のヤンカラ先生盤(63年BPO)など気に入っているけど、メンゲルベルクの面白さはハンパないのでチョイス。メンゲルベルクと言えば弦楽器が一斉にポルタメントをかけることで有名で、ぶらさんではその効果は大きい。特に3楽章は陶酔の域に入ってる。くらくら酔ってきますね。オケでポルタメントをかけると、バイオリンソロでのポルタメントとはまた一味違った味わいになるのが不思議。ソロとか室内楽でのポルタメントはお洒落、粋、ロマンチスト的な印象になるけど、オケでやると胸が締め付けられてキュンと痛むような虚しさを伴った雰囲気になる(もっともメンゲルベルクだからそう感じるのかもしれないけど)。これは病みつきになりますよ、ほんとに。1楽章とかもルバート多用でニヤニヤしちゃう演奏。

カラヤン BPO 88年(DG)

ブラームスという作曲家は本当に難しい。甘美さと、ある種の暴力性みたいなものを兼ね備えていないといかんのではないかと思う。いつも聴く指揮者がほぼ全滅である。そんな中、珍しくカラヤンが選ばれたというのに、てもさんとは一致しないという、これはなんか一種の不条理である。僕がカラヤンを選ぶことは殆ど無いと思う。とくに古典派ではありえないだろう(あったとしたらてもさんにきっと洗脳されたのだ(笑))。しかし、この曲のこの盤に限って言うと、心地よさが半端ではない。とにかく重厚だが、それに負けない高音の鋭さ、低音の広さ、そして完全にコントロールされたデュナーミクが魅力。すべてがよく絡みあって、造形していく。カラヤンにしてはガシガシとマッチョな演奏をしていると思うが、どうだろうか。そんなにカラヤンを聴いたことはないので、そこらへんはてもさんの意見をききたい。特に3楽章から4楽章の流れは他を寄せ付けない。唯一泣いた録音。3楽章のバスのピッチカートに支えられて木管と弦が奏でゆく音楽は、浜辺で夕日の中、寄せては返す波を見ているようで、いつまで見ていても飽きない、というような美しさがある。4楽章、Un poco sostenutoからの赦しの音楽、ともいうべきパッセージに、最後に現れる愛おしいばかりの主題に、そうだよねぇ、と頷くばかりである。高校の同級生のオススメで聴いた。

ガーディナー ORR 08年(Soli Deo gloria)

しょっぱなからクリアな音が聞こえる。エキサイティングだ。ティンパニが楽しい。当然だけれど、カラヤンとは全然聴くところがちがう。どこまでも解像感ゆたかな音のならびである。ピリオドピリオドっていうが、何が一番いいかといえば、転調した時の劇的さ、だと僕は思う。平均律ではないからこその劇的さがあるのだ。まぁ、僕の知っている中でピリオドでブラ3やってよかったね、っていうのは今のところこれだけであるな。透き通る音色はORR独特のもの。4楽章に劇的さを求めるならば、この一枚もオススメ。この盤には、モンテヴェルディ合唱団の歌うブラームスがカップリングされているが、モンテヴェルディ合唱団の素晴らしさがよくわかる録音で、盤全体としてもオススメ。たぶんいちばん長い間聴いていた録音。発売直後に手に入れた、ハズ。

ヴァント ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団 55年?(BnF)

モノラル録音で、そんなに音質も良くないのだけれど、キラリと光るものがあるので。なんかことブラームスに関しては、価値判断基準がすごくズレる気がする。 木管、とくに抑制的なファゴット、ホルンがいい味を出している。前に紹介した2つを聴いてから聴くべきでは、ない。緩徐部分での蠢動する感じとか、淡々と刻んでいく様子などは逆に清々しい。4楽章の3連符の領域はヴァントの真骨頂だと思う。あと252小節のチェロがよい。やはり3番はメリハリのある演奏が好きなのだな、という再発見のためにあるような一枚。

でもまぁ、左の人とはちがって、総じてしゃっきりとした演奏が好きですね。