2016年5月11日水曜日

ベートーヴェン:ピアノソナタ14番「月光」


てもさん:

◎グルダ(アマデオ、67年)

グルダによる快演。ベートーヴェンの月光でよく話題にのぼるのは、大抵がポリーニ、アシュケナージ、バックハウス、ケンプあたりで、グルダの月光の演奏を褒めちぎっているサイトというのはあまりない。なので、ぼくがこのサイトに書いている笑。この月光、とにかく3楽章が凄まじい。どの瞬間を取っても完璧な出来栄えで、すべての音の配置が寸分の狂いもなくあるべき位置であるべき音量であるべき長さで鳴っている。3楽章冒頭は楽譜に書いてあるpは完全に無視されfで始まっていて度肝を抜かれるが(それも冒頭の左手のCisはスフォルツァンドだ!)この始まり方は正直アリだと思う(64年ザルツブルクライヴでも冒頭をfで始める解釈を採用している。それ以前の録音(63年のコンサートホール盤、57年のデッカ盤)では小さく始まっている)。ペダルを多用し響きが重なるようにしているため、非常に滑らかでドラマチックな雰囲気になっている。基本ルバートは使わず、どのフレーズも全部インテンポで駆け抜けてゆく。しかしインテンポといっても乾いた感じにはならず、細かいところでは微妙な緩急を用いているためとても自然に聞こえる。ここまで劇的でしなやかに、一気に弾ききる月光も珍しい。グルダのベートーヴェンは強靭なタッチと流麗なフレージングを合わせ持ち、持ち前の華やかで美しい音色も相まって、実に複雑な味わいを持っているある意味不思議な演奏だと思う。

◯ホロヴィッツ(72年、CBS)

月光はおそらく今まで買ってきた同曲異演のCDの中で最も枚数の多い曲だと思うが(40枚くらい?笑)いまだにグルダとこのホロヴィッツの演奏のほかにめぼしいものが見つかっていない。ホロヴィッツのこの演奏も実に個性的な演奏で、これは正真正銘、斜めから構えた古典派である。1楽章はまさにホロヴィッツの独壇場であり、右手のメロディーの音色の扱いは彼のスクリャービンを聞いているかのような色彩豊かな官能性をも持っている。弾く音の一つ一つが違う色合いを持ち、その陰影に富んだ表情付けは実に立体的に響き、この月光の1楽章を見事にロマン派の曲に作り変えている。続く2楽章はなんとも気だるい雰囲気で続く3楽章のドラマを予感させるのに十分な効果である。ここも異色の解釈と言え、左右の手のタイミングのずらしと長めのテヌートによって表現されるやるせないもどかしさはこの楽章を単なるつなぎとは呼ばせない実に複雑な味わいに仕上げていて圧倒的である。3楽章も超個性的な演奏である。冒頭のアルペジオの上昇音型は異常なまでの緊張感を持ち一つ一つの音が結晶化している。第2主題の優美な旋律は打って変わってホロヴィッツ一流のカンタービレで奏でられ、激しい部分とのコントラストもホロヴィッツならではである。
ずみさん:

▲CDタイトル

2016年5月8日日曜日

スクリャービン:2つの小品 作品57 「欲望」「舞い踊る愛撫」


てもさん:

◎ネイガウス(スタニスラフ)(79年、デンオン)

スクリャービンの後期への入り口の作品。タイトルもなんとも刺激的(笑)なものだが、音楽もそれと同じくらい美しく、かつ後期作品にしてはかなり親しみやすいもの。調性は曖昧になってきているがまだはっきりしている。不協和音の美しさを堪能できる名曲(?)である。とはいえ普通に聞いてもあまり耳に残る曲では正直ない。しかし、ここに挙げたスタニスラフ・ネイガウスの録音を聞いてそれは一変した。彼の演奏、一部ライヴではかなり雑なものもあってこれまではよくスクリャービンを取り上げているが二流の感が否めないピアニストという位置付けだった(ネイガウスファンの方、失敬失敬^^ゞ)が、こういった小品での彼の解釈は後期スクリャービンの神秘主義への本質を見事についたもので、かつ一般人にもわかりやすく表現されていて非常に感銘を受けた。冒頭からさりげなく入るが、光沢感のあるタッチと絶妙な音量コントロールでスクリャービンの恍惚とした世界を表現している手腕は驚きである。「欲望」における半音でぶつかる和音の響きの美しさ、ためらいがちに昇る上昇音型の危うさ、「舞い踊る愛撫」での下降音型の和音進行をはっきり出すことで非常に綺麗な半音階の進行を浮かびあがらせ、その退廃的な美を表現しているあたり、ネイガウスならではである。このほか録音としてはゲンリヒ・ネイガウス(スタニスラフの父)、大御所ソフロニツキー(恐らくop57-1のみ)、グールド、ポンティ、オールソン、オグドン、カツァリス(Op.57-2のみ)などがあるが、出来はイマイチピンとこない。みんな響きが現実的すぎるのである。この曲はもっと夢見心地なぼんやりした輪郭の音色で弾かないと!!笑 ゲンリヒ・ネイガウスに関しては手許のCDの音質があまりに悪く(ノイズリダクションをかけすぎている)あまりちゃんと聞いていないためこちらは国内盤再発売を強く希望している。スタニスラフはこの曲を気に入っていたようで、最後のリサイタルでもOp.57-2をアンコールで弾いている(こちらもデンオンからCDが出ている)。やはり本人が気に入っていただけあってたった1分ちょっとの曲であるが味わい深いものがある。
<追記>
作品57-1「欲望」にはスクリャービン本人による演奏も残っている。ピアノロールでの記録のため、音色感や強弱のコントロールについては再生するピアノに依存し再生速度も収録環境によって異なるため(実際現在2種類の復刻CDが出ているが両者の印象は同一演奏か疑ってしまうほど異なっている。ただしよくよく聞けば同一の演奏である)あまり参考にならないのだが、間の取り方やフレーズの取り方などは作曲者本人の解釈として参考になる。ただ、このスクリャービンさん、自分の作った曲なのに楽譜通りに弾いていません!このOp57-1にしても9小節以降かなり音を変えて弾いています。ただ、楽譜よりむしろこっちのほうがいいかもってちょっと思いましたけど笑。個人的にはやはりネイガウスのロマン性には負けるかなーと思うけど、作曲者本人は楽譜の改変から見ると(たとえば9小節目は左手を1オクターブ下げて弾いている)割とドラマチックに弾きたいと思っていた気がする。そう考えるとネイガウスのは、ちょっと本人の意図からは外れた演奏ということになるが・・・。
ずみさん:

▲CDタイトル

2016年5月7日土曜日

W.A.モーツァルト:ピアノ協奏曲20番


てもさん:

◎ゼルキン(Pf)、セル指揮コロンビアso、61年(CBS)

ゼルキンによる実直でストレートな演奏。短調のこの協奏曲の激しい感情を実によく表現しており聞いていて大変心地よい。まさに「疾走する悲しみ」とはこのことである。同時にストレートな表現だからと言って無味乾燥な表現に陥ることなく、常に温かみのある上品な音色で弾かれる丁寧なフレージングは好感がもてる。ゼルキンには80年代になってからもアバドとの同曲の録音があるが、切れ味はセルとの旧盤の方が勝っており、その集中力と完成度の高さ、ひたむきに静かに燃える感情の表出という点において圧倒的に旧盤のほうが充実していると思う。セルの指揮もきびきびとしており、その清潔な響きはゼルキンの生真面目で一途なピアノに相応しく、引き締まった印象を与えている。

◯ワルター(Pf、指揮)、VPO(37年、EMI)

ワルターのピアノによる本人の弾き振りという珍しい一枚。ワルターのピアノはほとんど聴く機会がないと思うが(残っているものってたぶんこの協奏曲ぐらいではないかな)、この30年代のウィーンフィルを振っていた時代の彼の指揮のなんとも言えないウィーンの優雅な香りと洒落っ気をそのままピアノで体現したような詩情溢れるピアノは注目に値する。バックを務めるのはもちろんウィーンフィルで、とろけるような弦楽器の豊かでなめらかな音色とワルターの力まない草書体の演奏が大変よくマッチしている。ワルターってピアノとてもお上手なんだなと改めて感じたし、こんな演奏をできる現代のピアニストっているのかなとちょっと考えてしまった。さらりと一筆書きで描いた(ように聞こえるくらい力の抜けた)素敵な演奏である。

◯グルダ(Pf)、アバド指揮VPO、74年(DG)

そしてやはり最後はグルダです。この曲ではベスト盤に挙がるくらいの有名な録音。強靭なタッチと確信に満ちた表現で聞き手を圧倒する存在感の大きい演奏で、切ったら血の出るようなギリギリの精神力で弾いているような他を寄せ付けない異常なまでの張り詰めた緊張感がある名演。ピアノソナタを含めてグルダのモーツァルトはそういう意味で他では真似のできない厳しい表情を持った演奏が多く、その解釈はこの曲においても非常に正鵠を得たものとなっている。ただ、なぜかこの協奏曲ではピアノソナタなどでの説得力がそこまでは感じられない。ピアノソナタではそのような表現になるという必然性が確信を持って示されているように思えたのに、この演奏ではなぜそういう解釈をした?というような部分がなきにしもあらずで、個人的には演奏上悪い点は見当たらないにも関わらずぶっちぎりの本命盤になってない・・この理由はなぜかはちょっと今のところわかってないケド。。
ずみさん:

▲CDタイトル

C.フランク:ヴァイオリンソナタ

てもさん:

◎ティボー(vn)、コルトー(pf)、29年(EMI)

フランクのヴァイオリンソナタ。これ、ヴァイオリンソナタの中で一番好きな曲なんです。室内楽にハマったのもこの曲がきっかけ。いろいろと思い出深い曲ではあります。そして、一番初めに聞いた演奏がこのティボーの演奏。はじめは友達に言われるがままにティボーを聞いたのだが、まあ、いろいろ聞いていくうちに自分が気に入るものが見つかるだろうと思ってたら、どんどんいろんな演奏を聴きこむにつれてこの演奏がいかに特殊か、いかにティボーというヴァイオリニストの芸が半端なく上手いのかを知ることとなった。そして、現時点でこの盤を上回る出来の演奏を発見できていない。
さらに読む


◯デュメイ(vn)、ピリス(pf)、93年(DG)

現代的な演奏部門においては、随一の出来。デュメイのヴァイオリンの魅力は、線の細い繊細な美音と、振幅の大きいコクのある(?)豊かなビブラートという相反する美質をもって聴かせる煌びやかな演奏スタイルにあると思う。そのエッセンスがもれなく詰まっているのがこのフランクのソナタと言える。
さらに読む


▲タシュナー(vn)、ギーゼキング(pf)、47年(Bayer)

お次。大穴盤というほど"とんでも盤"(所謂と盤)ではないのだけど、あまり話題になることがなさそうなものをご紹介。タシュナーというバイオリニストはフーベルマンに師事してベルリンフィルのコンマスをも務めたなかなかの凄腕の人物です。
さらに読む
ずみさん:

☆セルゲイ・ハチャトゥリアン(Vn), ルシーヌ・ハチャトゥリアン(Pf) (naive, 2008)

なかなか進まない音楽、がデュナーミクによっても表現されている。タイミングのとり方がいい。予想したのとは違うタイミングで、音がでてくる。そしてそれが効果的にハマっているのだ。 コルトーやティボーの流儀を受け継いでいると言ってもいいのではないだろうか。とはいえ、彼らより楽譜に忠実ではある。いやいや、比べなくていい、比べなくていい。どちらも好きだよ。
僕の今まで聴いてきたこの曲のイメージって、循環旋律の登場までつまらない曲、だったんだけれど、それが一気に塗り替えられて、全てが意味を持って配置されている、という感じを受けたのがこの録音。自信を持っておすすめできる。演奏者はアルメニア人だけれど、現代において最もフランスフランスしている気がする。
これね、ヴァイオリンだけじゃなくてピアノに依るところが大きい曲だけれど、この息の合いは姉弟ならではなんじゃないかなぁ。と思う次第。ひとことで、大雑把に言えば、こんな演奏してみたい。(2016/5/7)

J.ブラームス:交響曲第4番


てもさん:

◎フルトヴェングラー指揮ベルリンpo 48年(EMI)

まずはやっぱりこれですかね。フルベン大先生です。また古いのをと言われそうだけど、よいものはやっぱりよいです。まず冒頭のロ音の入り。これがうまくないとそのあと聞く気が失せます笑。この部分は神業といか言いようがない出来栄えで、霧の中からわっと現れる第一主題は1度聞いたら虜になります。これが一番うまくいってるのが、当盤1948年10月24日の演奏で、フルベンの五種頼あるぶらよんの中でもピカイチの出来。そこから緩急自在にうねるブラームスが始まり、弦楽器のポルタメントも時折入りながら、ひたすらロマンチックに進んでゆく。1楽章のコーダは数ある交響曲の中でも最高峰に位置するコーダだと勝手に考えているが、こういうところはまさにフルヴェン先生の独壇場である。例によってぐんぐん加速していくが、この加速が全然わざとらしくなく、ばっちり決まっている。だいたいいろいろ表現に工夫を重ねるタイプの現代の演奏家ってこういうのをやると、いかにも!って演奏になるけど、フルベンのすごいとこは、そこなんじゃないかとひそかに思ってる。最後のティンパニも納得のリタルダンドで締めくくられる。4楽章もなかなか決まってる演奏で、テンポ設定が非常にうまいなあとつくづく思う。てなところで、次。

◯クレンペラー指揮バイエルン放送so 57年(墺Orfeo)

このクレンペラー、ライヴだけにかなり燃えてる。スタジオ盤の同曲の録音では彼のザッハリッヒな側面が目立ってあまり好きになれなかったけど、こっちのライヴ盤の出来は上々。冒頭から前へ前へフレーズが覆いかぶさるように切れ目なく紡ぎ出され、細やかなニュアンスも表現されていて、一聴したところで他の盤とは違う!って直感した。とにかくめらめら燃えるような感情の入った演奏で、灼熱の演奏と言うと安っぽく聞こえるが、内に燃えるものを秘めてる演奏というか・・うーんそんな感じ。1楽章コーダも納得の出来。クレンペラーにしては珍しく大幅なテンポの揺れが見受けられて、ライブだとこんなに指揮も変わるんだなと思った。録音は古いけど若干擬似ステレオになっているので聞きやすいですよー。

▲カラヤン指揮フィルハーモニアo 55年(EMI)

全編にわたり細身の響きにも関わらず恐ろしいくらいなめらかな弦楽器が特徴。どう見てもこれは正統派のブラームスではないが、こういう異端児系の演奏は好きである。70年代に全盛を迎えるBPOのカラヤンサウンドがやはりカラヤンの行き着く美学の頂点なのだろうが、意外にもこのゴージャスサウンドはブラ4にはあまり似合わない(当たり前か笑)。78年の録音はキラキラ華麗な演奏だがさすがのカラヤンファンである私でもこれはちょっと違うかなと思ったりする笑。そんな中でしっくりくるのはこの55年のPOとの録音と63年のBPOの録音。後者は重厚で暗めの色を基調とした音作りでこちらの方が一般ウケすると思われるが、やはりカラヤンの面白みという点ではPOとの演奏が面白く感じられるし、クライマックスでも決して(音量的には)盛り上がらないひらすら美のみを追求した氷細工のようなカラヤンの音作りとこの曲が持つブラームス色が共存しているという点ではかなり上位に食い込む演奏ではないだろうか。

ずみさん:


CD NAME ZUMI

TEXTZUMI

スクリャービン:詩曲作品32-1


てもさん:

◎ホロヴィッツ(62年、CBS)

スクリャービンと言えばホロヴィッツ。彼にしかできない繊細で神経を張り詰めた弱音、アゴーギク、ペダリング、千変万化する音色でもって表現する官能的な美しさはスクリャービンには必須の要素ばかりである。とくに詩曲32-1で必要になるスタッカートを伴う上昇音型(前半後半合わせて計8回出てくる音階)を楽譜通りスタッカートで弾きこなせているのは筆者の知っている限りホロヴィッツのみである!(その他スクリャービン自身の演奏によるピアノロールの記録では作曲者本人も何とも詩的にこの部分をスタッカートで弾いているが。)普通の奏者がスタッカートで件の箇所を弾けば恐らくこの曲に必要な要素をかなり失わせるものになるだろう。それを可能にしているのは、おそらくは彼一流の指を寝かせて弾く奏法と、そして改良に改良を重ねた彼愛用のスタインウェイによるものであり、スタッカートで一音一音は切れているにも関わらず、それぞれが音がない空白によって繋がって聞こえ、夢うつつな詩情を生み出しているのである。4分の3拍子に変わり特徴的な5連符のリズムで揺れ動く部分の意識のゆらぎの表現も彼ならでは。陰影に富む左手の音色の変化によって微妙な和音の変化がより際立ち多彩な表情を覗かせるあたりは彼のピアニズムの真骨頂であろう。この62年録音はスタジオ録音であり、彼の意図していることが綿密に再現されている。そして比較的楽譜に忠実に弾いている笑。

◎ホロヴィッツ(65年ライヴ、CBS)

同じくホロヴィッツのライヴ盤である。こちらは3年後の65年の録音。基本的な解釈は同じなのだがライヴだけあって62年のスタジオ録音よりも自由に感興に任せて弾く部分もあり面白い。どちらを取るかは人それぞれだろうが、はっきり言って甲乙つけがたい。部分的な効果の面白さはこちらが上だろう。またこちらはホロヴィッツらしい楽譜の改変が見受けられる。効果を出すために削るべき音は削り、付け加える音は的確に付け加えている。考え抜かれた巨匠の芸であり、一聴に値する。

◯ポンティ(73-74年、VOX)

悪名高きポンティ盤。私はこのポンティなるピアニストが好きである。悪いのは録音状態とピアノの状態。さすがにこのアップライトまがいの平面的で奥行き感に欠ける音色はいただけない(本当にアップライトなのでは?という噂もあるようで笑)。にも関わらずここに聞かれるスクリャービンは本質をよく突いており、こんなひどい状態のピアノで弾いているのに、その美質がよく伝わって来るところがポンティの実力だと私は思っている。要は音色の変化のつけ方、立体的な音作りがうまいのである。ポンティのスクリャービン全集は非常に短期間で録音されたようで中には少々粗い、弾き飛ばしているようなものも見受けられるのも事実だが、この詩曲に関してはこの曲の美しさがよく伝わる演奏になっていると思う。

◯シャイン・ワン(07年、Naxos)

はっきり言って他の演奏は到底ホロヴィッツに及ばないものばかりではあるが、ポンティをはじめいくつか挙げてみているが、新しいところでシャイン・ワンを取り上げてみる。そのほか往年の巨匠ソフロニツキーの60年リサイタルの録音やネイガウス(父子)、つい最近発売されたオールソン盤、はたまたぶっとんだ演奏をやらかしたウゴルスキ盤、色彩感に欠ける致命傷のアシュケナージ盤などいろいろあるが、正直どれも取るに足らないものばかり。その中でもシャインワンのものは割と美しい仕上がりになっていて時折聴いているものの一つである。このCDはスクリャービンの初期から後期に至るまでの各時期を代表する作品(とは言え知名度で選曲しているというわけでもなさそうだが)を並べて収録しているものであり、通して聴いてみるのも一興かもしれない。

2016年5月6日金曜日

ドヴォルザーク:ピアノ五重奏曲


てもさん:

▲ルービンシュタイン(Pf)、ガルネリSQ(71年、RCA)

いきなりの大穴盤に登場していただく。ルービンシュタインのドヴォルザークである。ルービンシュタインと言えばショパンをはじめとしたオーソドックスな解釈のソロ作品が有名で、一方ドヴォルザークのこの曲と言えば大概がリヒテル盤あたりを挙げるのが見識というところだろう。ところが意外にもこの曲にルービンシュタインが合うのである。それもショパンのようなピアノ教室のお手本のような演奏ではなく、強烈な表現意欲を持ってこの名曲に挑んでいるところが凄い。こんなドヴォルザークはなかなかない!!とにかくとの瞬間もルービンシュタイン独裁のような状態で、彼のピアノの入り方如何でガルネリSQの表現がガラリと変わるのである。しかも、独裁によって室内楽における自発的なアンサンブルの流れが失われているかというとそんなことはなく、ガルネリSQのなんとも香り高いむせ返るようなロマン的な表現は圧倒的で、明るく美しい旋律を持つ、悪く言えばさらりと流れやすいこの曲が、異様なまでのロマンの香りがするただならぬ音楽に変貌している。ピアノパートの旋律になると、途端にピアノの音色が輝きを増し圧倒的な存在感でもって弦楽四重奏の上に浮き上がってくるし、1楽章の2度あるクライマックスでは普通の奏者なら決してかけないようなルバート(テヌートというべきか)を用いてドヴォルザークのメロディーメーカーの側面を最大限に強調している。ルービンシュタインってこんなに主張が強い演奏をするのかと恐れ入ってしまった。しかしそうするとあのよく知られたショパンの演奏は何なのだろうか笑。そんなところだから当盤は現在ほとんど市場に出回っておらずずっと廃盤のままと思われる。ルービンシュタインって実はソロより室内楽のほうがうまいのではと個人的には思ってる。ブラームスのトリオは大変な名演だし。

◯スメタナSQ、シュテパン(Pf)、(66年、EMI)

次。スメタナSQの旧盤。パネンカのピアノによる新盤ではないので、ご注意を。こちらもほとんど市場に出回ってないと思われるもので92年あたりに一度EMIから国内盤が出たようであるがそれっきりで、筆者も駅売海賊盤(エールディスク製)でCDを入手した(画像もネットでEMIのものを探したがヒットせず。仕方ないので手許にある件のエールディスクのものを使用した)。しかし新盤では聞かれない自然な音楽の流れや、ボヘミアのローカル色と純音楽としての普遍性の絶妙なバランスなど、なぜに廃盤なの?と言いたくなるような演奏で、末永く聞く向きにはこれが一番なのかもしれない。演奏は特段目立った特徴があるわけではないが、どの表現も角が立っておらず常にまろやかな表現なのが特徴と言えば特徴で、この控えめなロマン性の表出こそがこの盤が私を惹きつけて離さない所以である。ヤフオクにも時々出品されているので皆さん買いましょう笑  FICというところから出ているのも同一盤なのでOKです。

◯リヒテル(Pf)、ボロディンSQ(83年、ビクター[VICC-60007])

有名なリヒテル盤。と言ってもフィリップスから出ている1982年のものではなくこちらは1983年のライヴ盤。フィップスのものもこちらも1年違いのライヴ録音だが、82年のほうはなんだかとってもテンポが早くて、どうもせかせかして好きになれないし、なんだかとても雑であまり好んで聞かない(リヒテルもミスタッチがとてつもなく多く、弦の奏者も音程をやたら外している)。それに比べ、83年の当盤は幾分落ち着いたテンポで堂々とした演奏で好感が持て、82年で聞かれた雑な感じもなくなっていて完成度が高い。それに、ライヴだけあって非常に情熱がほとばしる熱い演奏になっていて凄みもある。リヒテルの力強いピアノはやはり少しデリカシーがないように感じるが、まあこれはリヒテルだから仕方ない。しかし凄いのがボロディンSQ。どの弦楽器の音色も鮮やかで、完全に鳴りきっており聞いていて心地よい。それに加え時折入るポルタメントやロマンチックな表現など決して無味乾燥にはならない。どの楽章も聞いた後胸のすくような快感を残す。オススメ。

◯ウィーンフィルハーモニーSQ、カーゾン(Pf)(62年、デッカ)

最後。こちらも忘れてはならない名盤。ボスコフスキー率いるウィーンフィルSQによるひときわ美しい一枚。ウィーンフィルの奏者だけあって弦楽器は艶やかな音色でもともとロマンチックな旋律を持つこの曲だが、なんだか違う方向にロマンチックになっているような気はするが笑、ヴァイオリンの極細の煌びやかな線が合わさり絹のような肌触りをも感じさせる上品な表現は私は好き。上のリヒテル盤のような盛り上がりも推進力もないし、終始おとなしい演奏なのが逆に好印象。"土着の"という言葉がもっとも似合わない名盤。
ずみさん:


CD NAME ZUMI

TEXTZUMI